【書評企画】社会的投資を知るための1冊【第3回】

futta2536m

ARUN東京オフィス K.S.


「裏の木戸はあいている」収載の短編集「ひとごろし」
山本周五郎(新潮文庫、1972)

社会的投資のことがわかる本。というこの連載文脈で紹介できる作品を探していたときに私が思い出したのは、山本周五郎の時代小説「裏の木戸はあいている」でした。

江戸時代の架空の藩で納戸方頭取(≒出納課長)に就いている設定の武士、高林喜兵衛を描いた短編です(初出誌は1955年「講談倶楽部」)。

「御用ちゅうだから簡単に云うが、そこもとが隠れて金貸しめいたことをしている、という訴文が、目安箱の中に投げ入れてあった、十数通も入れてあったので、念のために事実かどうかを訊きたいのだが」

この”金貸しめいた”行為、マイクロファイナンスっぽいけど違うし(利息を前提としていないから)、寄付っぽいけど違うので(返済が期待されていることを借りる側が認識しているから)……ひょっとすると投資? 投資のリターンを経済的なものに留めず、社会にとって良い状態を生みだすところにおいている、って意味で社会的投資? まさかね。と承知しつつ、読み返してみたのです。

「どうしてだ」と五左衛門は訊いた、「どういう事情でそんなことを始めたのだ」
「それは--」と喜兵衛は低い声で云った、「その日の食にも窮している者たちに、いちじの凌ぎでもつけばよいと思いましたので」
「小人の思案だ」と三郎兵衛が云った、「それは人に恵むようにみえるが、却って人をなまくらにする、貧窮してもそんなふうに手軽に凌ぎがつくとなれば、そうでなくとも怠けたがる下人たちは、苦労して働くという精神を失うに違いない、十人が十人とはいわない、十人のうち一人でも二人でも、そういう人間の出ることは慥かだと思う」
「それに」と五左衛門が云った、「返してもよし返さなくともよしとなると、借りたまま口をぬぐっているという、狡い気持をやしなう危険も考えられる」
「これについてどう思うか」と三郎兵衛は喜兵衛に云った、「そういう安易な恵みが、逆に害悪となるという点を考えたことがあるか」

本作の魅力は、喜兵衛という人物が性善説を信じているわけではない点にある、と思います。

彼は「人はどうしようもなく弱い」と信ずる者であり、その意味で五左衛門や三郎兵衛のような「弱い人間は矯めてこそなんとかなる」マッチョな視点と実は同じような場所から、ひとを眺めています。違いがあるとすれば、人間の弱さを克服するにはこうでなければ。と結論を出し、それに従うのではなく、自分の採っている行為は仮説でしかない、と常に迷っているところ。

社会的投資の「あるべき姿」「絶対的な正解」を模索しながら、実証実験を積み重ねているARUNに身を置く者としては親近感を覚えずにはいられません。

そういえば、ARUNが実践している社会的投資のキーワードのひとつに「持続性」があります。

寄付ではなく、なぜ投資か? 投資というフィルタを通過すると、投資する側・される側が継続してコミットせざるをえなくなる、そこにメリットを見いだせるから。すごく簡素化して答えると、そういうことになるかと個人的には考えているのですが、高林喜兵衛の(地方公務員がリターンを期待せず私財を原資とする)行為は、それこそ投資という観点から評価するといかにも素人くさく、持続性に疑問ありと思わざるをえません。
ところが、本人は「続けられるだけ続けよう」(原文ママ)と思っている。持続性の意義を認識しているのです。

もちろん、ARUNの考える社会的投資には「自立」という別のキーワードがあって-ARUNの投資が終わった後、投資先が自立できるようになるか。仮にARUNから出資が受けられなくなったとして、別の貸し先を探し出して、資金を得られるだけの能力を身につけられるか-その観点からも、高林喜兵衛の行為に満点をつけることは、到底できません。

その証拠に、前出引用部のごとく上役に疎まれるだけでなく、奥さんにはガンガン責められるし、挙句の果てには……あ、これ以上書くとさすがにネタバレになるな。

ただ、そうやって考えると、高林喜兵衛の時代にはなかった「社会的投資」が、いかに今日のもので、かつ、良くできたスキームであるかが、わかる気もするのです。

以上、社会的投資という概念がなかった時代を振り返ることによって、社会的投資の意義がわかる1冊。として、山本周五郎の時代小説をおすすめしてみました。

2017年6月
« 8月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

follow us in feedly